本堂

蓮照寺の本堂は、江戸中期の正徳2年(1712年)に建立されました。それまでは、辻堂と呼ばれる小さなお堂で当時の住職が仏教伝道をしていました。

浄土真宗の本堂は、僧侶が勤行(おつとめ)をする内陣よりも、外陣の方が広いことが特徴です。それは、浄土真宗のご門徒のみなさんが『聞法』という、法話を聴くことを大切にされてきたことが反映された形です。

鐘楼(釣り鐘堂)

鐘楼(釣り鐘堂)は本堂と同じ時期に建てられました。太平洋戦争の頃、武器の材料となる金属が不足していたため、金属製品が国に供出されることが全国的に行われていました。蓮照寺に最初に設けられた釣り鐘も、大変残念ながら国に供出されてしまいました。

現在の釣り鐘は、戦後にご門徒のご尽力によって新たに設けられ、毎朝心地よい音を響かせています。

また、大晦日には午後3時から「子ども除夜会(じょやえ)」、午後10時から「除夜会」を開催しており、どなたでもお気軽に鐘撞きをしていただけます。

観音菩薩蔵・お地蔵さん

愛荘町にはどの字(区画)にもお地蔵さんがあり、毎年お盆の時期になると子ども会主催の「地蔵盆」が開催されます。蓮照寺のある下八木は「観音盆・地蔵盆」として開催されます。その理由は、下八木には観音菩薩蔵が観音堂に安置されているからです。

通常、浄土真宗では観音菩薩にお参りをすることはありません。でも、蓮照寺にとってこの観音菩薩はとても深い関係があります。
その深い関係については、次の「蓮照寺の歴史」でご紹介いたします。

蓮照寺の歴史

天正元年(1573年)に織田信長の軍勢が現在の滋賀県愛知郡愛荘町の山間部にある天台宗の「金剛輪寺」焼き討ちを敢行しました。
その時、金剛輪寺の僧であった「湛空(たんくう)」は観音菩薩を何としてでも守らねばならないとの想いで、観音菩薩蔵を懐に抱えて約7キロ先の下八木の集落まで逃げて来ました。
7キロという距離はそんなに遠く感じられないかもしれませんが、当時は竹やぶがずっと続くような場所でありましたし、織田の軍勢に見つかってはなりません。湛空にとって、とてもとても長い道のりであったのには違いないでしょう。

どうにか下八木まで逃げてきた湛空を地元の皆さんは匿いました。織田の軍勢が去った後も、湛空は下八木に留まり、人々のために読経をしていたと伝えられています。これが、蓮照寺のルーツとなり、観音菩薩が下八木にあり、蓮照寺との深い関係にあるところであります。

その後、二代目の慈眼が浄土真宗のみ教えに出遇い、浄土真宗に転派し、現在に至っております。